さくら雑感

済生会熊本病院 中尾 浩一

 本稿が掲載される頃とは季節を違えることになるが、昨日、熊本の桜が満開となった。加えて今年は「くまもと花とみどりの博覧会」が催され、市内随所が花々で彩られている。新型コロナウイルス感染症が社会に影を落とす中にあっても、約束通りに季節は巡り、たおやかな風に桜花が舞い始めた。いにしえより桜に心を寄せる詩歌は、枚挙に暇がない。
 『春の心は のどけからまし』。英文法なら仮定法過去、反実仮想の余韻が心に残る。桜の美しさゆえに、心穏やかでいられない。満開を待たずして散り始めるその慌ただしさに、今この時を見逃すことへの焦りを覚える。然るに、某大学の構内には“花見禁止”の大きな張り紙。だがその脇の小さな立て看板には、こうあった。「○大生のニュー・ファッション。マスク+目隠し販売中。567円。うっかり桜を観てしまわぬよう!(自粛同好会)」。不確かな今を生きる学生たちの、ささやかな反骨に休心する。
 『わが身世にふる ながめせしまに』。和歌の妙は、何と言っても掛詞。この修辞法は受け手の知的レベルへの信頼から始まる。雨が降り、時が経る。長雨に物思い(眺め)に耽る。ソメイヨシノの蕾は濃い赤に見えるが、咲き始めは淡紅色となり、満開になると白色に近づく。そして、少しばかり目を逸らした隙に、風に散る。徒に齢を重ねてしまう大人の自虐と諦観が、漸く自らのものとなりつつある。若さも美貌もいつかは消えてなくなる。そして、消えて無くなるからこそ、愛おしいことに、今更ながら気づく。
 『今宵逢ふ人 みなうつくしき』。祇園から清水へ。月夜が映す桜は殊更に魅力的で、時に艶めかしい。しかし、美しいのは桜だけではなく、行き交う人々もまた然り。花の魔力か、それとも古都と名刹の為せる業なのか。かつて大阪に住んだ頃、春になると伯母と一緒に、長岡天神界隈で求めた朝掘りの筍を抱えて茶わん坂を上った。伯母は清水寺貫主の親族に嫁いでいて、塔頭の成就院に通っていたのだが、その「月の庭」と東山借景の溶け合う美しさは、未だに忘れ得ない。今や、清水の夜桜はライトアップの時代。華やかではあろうが、桜の翳りと移ろい行く儚さに、誰か心を寄せることは出来るだろうか。
 『まだ見ぬ方の 花をたづねむ』。去年の道標を辿れば、あの素晴らしい桜に今年もまた会える。にもかかわらず、あえて道を逸れ、新たな花を探すべく、深山に分け入る。そんな自由・進取の精神を失わずに在りたいと思う。ルーティーンは効率的で思考負荷をも減じるが、賞味期限がある。「一貫性とは想像力を欠く人間の最後の拠り所」とは、オスカー・ワイルドの箴言。洋の東西を問わず、過去からの延長線上に未来はなく、今の選択が未来を創る。
 江津湖に桜を撮りに出た。ソメイヨシノの花柄は案外長く、細かな産毛が生えている。花が密生して咲くとその重みで花柄がしなり、花弁はうつむき加減になる。どう撮っても、その花は陰翳を抱く。

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