現役生活の送り方など

熊本市健康福祉局 田中 基彦

 2020年9月に前職を辞して、熊本市健康福祉局に就いて今月で1年半となります。生来の要領の悪さのために、就任日の朝まで名残惜しく在席していた医局の片づけをして、一旦帰宅後、辞令交付に出勤したような状況で、心身に異動の準備ができないままに当日を迎えました。つまりは、職務を理解しないまま行政医師としての仕事が始まった訳ですが、その年末から翌一月にかけての新型コロナウイルス感染症(コロナ)の流行期、第三波に向かう時期で、それまで関わることのなかった新興感染症に対する地方行政からの保健、医療提供体制の構築という業務の真只中に身を置くことになりました。全く異なる環境の中で、医師に囲まれない環境、職場で常に会話の相手であった立場の近い同僚が存在しないことが最大のストレスであったように思います。
 コロナ業務の話はさておき、行政機関に身を置いて感じた医療機関との相違についての独断とともに雑感を綴らせて頂きます。まず、色んな場面で医療機関の先生方からその欠如を指摘されます「スピード感」の意識は、明らかに異なると感じます。災害時などで緊急に行政の対応が必要な事態は稀なことではなく、コロナ対応、対策において求められるのは急ぎのことばかりです。しかし医療において日常的に発生する一分一秒を争う事態、実施した処置の結果をすぐに目の当たりにする場面は行政では考えにくいと思います。重要なことほど段階的承認を経ることが必要で、現場の即応の範囲は限定されます。ただ即応の結果、予想もしない非難にさらされることも経験し、対応の違いは必然とも感じます。 もう一つ、著名な政治家たちのコメントでもしばしば耳にする単語「など・等」、「しっかりと」、「一定(程度)の」についてです。就任後間もなく文章の確認を求められた際に、いずれも意味することが曖昧であると指摘したものですが、意見は採用されませんでした。「など」は医学的な文章でも主たる対象を示して他を省略する際に頻用されるかと思いますが、一方ではそれを付記することによって、対象が記載されたものに限定されず、後の追加を前提とした使い方さえあるように感じます。後二者は程度を示す修飾語としてどの程度を指すのか不明確かつ可変的で、医学的表現には馴染まないと思いますが、今は努力あるいは決意の程度の強さ、肯定的に受け入れられた評価の程度を示す表現としてしばしば見聞きします。これらの単語に触れるたびに、使用には必然性があるのかも知れませんが、またかと思うとともに曖昧さを感じてしまいます。
 研修医の2年目、1989年にC型肝炎ウイルスが発見され、その翌年から消化器、肝臓を専門としてきました。インターフェロン時代を経て、直接作用型抗ウイルス薬によりウイルス排除率は99%となって、排除に限定すれば専門性はほぼ必要ではなくなり、その変化は異動を決めた小さな理由の一つにもなりました。
 2020年はC型肝炎ウイルスの研究者三人がノーベル医学・生理学賞を受賞し、コロナパンデミックの年となりました。時の流れを感じつつ、ポストコロナの時期が訪れることを切に願い、一定の評価を得ることを職の目的とはせず、先長くはなくなった医療者としての現役生活の送り方などをしっかりと考えたいと思っています。

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