骨折したテディベア
国立病院機構熊本医療センター 日高 道弘
30年ほど前になる。私は留学する機会をいただき、カナダのトロント市に家族と暮らした。幼稚園が徒歩圏内にあり、毎朝子供を送り届けることが私の日課となった。ある朝、子供は登園の際に「Ken」と名付けたぬいぐるみのテディベアを片手に抱えていた。幼稚園での行事で、そのぬいぐるみが骨折やケガをしたと想定し、治療を行うらしい。夕方迎えに行ったときには、そのテディベアは頭にぐるぐる包帯を巻かれ、三角巾で腕をつられ、足には添え木が施されるという重症感たっぷりに治療されていた。さらに、首の周り「Ken」と書かれたプラスチックのバンドが巻かれていた。子供にこれはなんだと尋ねると、病院に行ったら最初に装着されるバンドで、先生がつけてくれたと説明してくれた。当時日本ではまだ一般化されていなかった患者識別バンドが、トロントでは幼稚園児も知る当たり前のことになっていた。
その後帰国して程ない1999年、国内で立て続けに大きな医療事故が起こった。某大学病院で、同じ時間に2名の患者が手術室に運ばれ、肺の手術と心臓手術の患者を取り違えて手術を行うという医療事故が起き、衝撃が走ったことを覚えておられる方も多いと思う。原因は複数の医療者が続けざまに患者誤認をおこしたことにあった。さらに某都立病院での血管内に消毒薬を注入した事故、某大学病院で人工呼吸器に誤って消毒用アルコールを入れる事故が起きた。後の2件に関しては患者が亡くなっている。大きな医療事故が立て続けに発生したこの年を、今では医療安全元年と呼ぶこともあるが、これを機に我が国の医療安全への意識が急速に高まった。
当時勤務していた施設でも患者誤認防止の方策として、入院患者に識別用リストバンドを導入しようとの意見が挙がった。テディベアに装着されていたあのバンドであったが、その時には結局実現しなかった。技術的な問題もあったが、手首にバンドを巻くことで入院患者の差別につながるとのイメージがあり、そこまでしなくてもという心理的抵抗もあったように思う。
医療安全は多くの施設でスローガンとして大きく謳われるが、それは医療の安全を達成するためには〝不断の努力〟が必要なことの裏返しでもある。特に医療行為の入り口で誤認があれば、それに続く投薬、処置、手術が間違った対象に行われ、取り返しのつかない事故につながる。絶対に避けねばならない。
識別用リストバンドは、今やほとんどの病院で違和感なく行われるようになった。急速に広がった電子カルテと連動され、あたりまえのことになった。患者参画型の誤認防止として、名前と生年月日を名乗ってもらうことも以前から行われている。それでも患者誤認は起こる。医療機能評価機構から、2019年1月~2021年月までに144件の患者間違い事故が報告されている。医療施設の取り組みのみならず、患者側の意識改革も促し、さらなる医療安全の追求が必要である。何の違和感もなく当たり前のこととなるように。